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소록도-한국 한센병 문제 답사1 / 小鹿島ー韓国ハンセン病問題をたどる旅1

2024.10.22 11:32
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Jieun Lee
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소록도-한국 한센병 문제 답사1 / 小鹿島ー韓国ハンセン病問題をたどる旅1

เนื้อหาประกาศ

梅雨空の7月上旬、韓国の南端、高興郡にある小鹿島を中心に韓国のハンセン病問題フィールドワークを行いました。とあるご縁をいただいて知り合った日本のハンセン病問題で活動されておられる方たち12人、そして韓国からの参加者を含む総勢14人での2泊3日の旅でした。

 ハンセン病問題とは、そして日本と韓国のハンセン病問題、小鹿島など訪れた場所、出会った方たちについて3回に分けてご報告したいと思います。

 

 ハンセン病はかつてはらい病と呼ばれていましたが、この病名には歴史的に差別的なイメージが加えられ、ハンセン病患者、回復者を傷つけてきました。そのため1996年に「らい予防法」が廃止された際、偏見差別を是正する目的で、らい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前をとって、ハンセン病と改められました。ハンセン病はらい菌による感染症ですが、菌の感染力は弱く、治療法が確立された現在では完治する病気です。また潜伏期間が長く、感染しても多くは発症しませんが、発症すると皮膚と神経を侵すため身体に外見上の変化があらわれることから、古代から患者は偏見と差別にさらされてきました。

 日本では日清・日露戦争の勝利後、「一等国」においてハンセン病患者は「国の恥」だとし、1907年に「癩予防に関する件」の法律を制定し、患者を5ヶ所の療養所に収容する隔離政策を始めました。1931年に制定された「癩予防法」においては、「民族浄化、無癩日本」を旗印に、全ての患者を根こそぎ収容し、強制隔離して新たな患者発生を認めない「終身隔離・患者撲滅政策」を打ち出し、無らい県運動を展開、各県の衛生当局と警察はしらみつぶしに患者を探し出し、家族から引き離して療養所に送りこみました。住んでいた家も見せしめ的に目立つ形で消毒を見せしめ的に行ったため、残された家族も厳しい差別に遭いました。また、収容された施設は、「療養所」とは名ばかりで、患者は一切の行動の自由をが奪われ、過酷な強制労働、断種、逆らった場合には懲戒検束されるなど人権を無視した行為が日常的に行われました。

 1943年、米国でプロミンという特効薬が開発され、第二次大戦後には世界では患者の治療と社会復帰が進んでいました。しかし日本は患者の強硬な反対にも関わらず、1953年強制隔離政策を継続する「らい予防法」を制定、患者やその家族の苦難の歴史は続きました。療養所で暮らす回復者や支援者の努力によって、「らい予防法」は1996年に廃止されました。回復者は強制隔離政策という国策の過ちを問う、「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」を提訴、2001年に勝訴し、2008年に「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が制定されました。また、偏見差別にさらされた家族も国家賠償を請求し、2019年に勝訴しました。

〔参照:ハンセン病国賠訴訟(https://www.hansenkokubai.gr.jp/index.html)〕

 1910年の「韓国併合」により日本の植民地となっていた朝鮮でも、統治機関である朝鮮総督府は日本と同じ、いえ植民地であるが故に、より過酷な強制隔離政策をとりました。それまでは西欧の宣教師などが設立した療養所で患者の治療にあたっていましたが、南部の小さな島、小鹿島に慈恵病院を設立して患者たちを強制隔離しました。病院の院長には陸軍の軍医を任命し、島のなかに神社を建て患者たちに日本式の暮らしを強要しました。また日本のハンセン病政策と同じく、患者たちを治療し、療養させるのではなく、強制的に労働に従事させたため、病状の悪化をまねきました。

 2代目の院長花井善吉は朝鮮式の衣服、食生活、信仰の自由を認め、患者たちからたいへん好かれた人物でした。朝鮮解放時には神社や院長に関する銅像などはほとんど破壊されましたが、花井院長の顕功碑は患者たちの手によって地中に隠され、のちに掘り起こされて復元されています。

 しかしのちの院長は患者たちに言葉で言い尽くせぬほどの人権侵害を行いました。特に1933年に就任した第4代院長周防正李は、煉瓦工場を建築させ、患者たちを強制的に労働に従事させました。ついには自身の銅像を建てさせて月に一度報恩の日を定めて患者たち全員が参拝することと定め、体調が悪くて参列できない者は監禁房に収容し、断種手術を行うなど、非人道的な処罰を行いました。 1942年、ついに立ち上がった患者、李春相により周防院長は刺殺されました。周防院長が患者たちを酷使して、海外から様々な樹木の苗木を取り寄せ、大きな岩などで造成した中央公園の真ん中ほどに李春相義挙碑があります。李春相は大邸刑務所にて死刑に処されましたが、彼の行いは今でも称え続けられています。このことからも朝鮮における日本のハンセン病政策がいかに非人道的なものであったかがよくわかります。



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